禅の友10月号・達磨忌にちなんで

曹洞宗「禅の友」平成13年10月号掲載 
特集<達磨忌にちなんで>

インド音楽に魅せられ       シタール奏者伊藤公朗

 今まで慣れ親しんでいた音とは明らかに異なった響きを感じさせるインド音楽、特にシタールという楽器に魅せられた僕は、ただシタールを学びたいという一心だけで何の情報も持たず、1977年、インドのカルカッタへと出発した。

 ガンジス河上流のヒマラヤの聖地、バドリナートにナーダヨギが住んでいるという話を聴き、インド亜大陸を東から西へと縦断し、ヒマラヤに向かった。ナーダヨギというのは、音楽を自己探究の修行方法とする修行僧のことだ。

 そのナーダヨギは名をD.R.Parvatikar(パルワティカル)といい、バドリナート寺院で修行されていた。僕が弟子入りを請うたときには、100 人以上の巡礼者が説法の代わりに楽器を弾き、バジャン(神への賛歌)を歌われるナーダヨギの音楽に全身全霊で耳を傾け、感謝しているようだった。
 聖地バドリナートはヒマラヤの高地、標高3133メートルに位置するヒンドゥー教の四大聖地の一つで、毎日数千人の巡礼者が絶えないほどの大本山である。

 

「明朝6時に来なさい。そして一日に12時間は練習しなさい」
との返事をいただき、無事入門を許可された僕は、結果、その翌日から今日に至るまで音楽に専念することとなった。

  沐浴を済ませ、冷え切った空気の中を、まだ人気のない寺院へと向かった。冷たい石畳の道の感触を足裏に踏みしめていると、昨日まで自由気ままに生きて来た自分とは明らかに違う自分を発見した。

 「こんなに生き生きとした自分に出会うのはいつの日以来だろう。」
 それは、子どものころ野山を駆け巡り時を忘れて遊びに夢中になって以来、すっかり過去のものとなっていた感覚が、心身の隅々にわたるまで鮮明に蘇ってくるような感じだった。

僕が勉強している北インド古典音楽は、即興性に重点が置かれ、演奏者の音楽性を自由に表現できるたいへんに面白い音楽だ。
 ゆったりとした流れで始まる音楽は、まるで1本の樹の根元に滴る水が少しずつ山の清水を加えながら、やがて大河となって海に注ぐように、規則を忠実に守 りつつ、少しずつ音を加えて大きな流れとなり、最後にはスピードが増しクライマックスを迎える。ときには激しく、ときには優しく波打つ音たちはまさに大自 然の営み、そして人間の一生を表現しているようでもある。

 また朝、日が上昇り夕方には沈んで夜を迎えるという一日の時間経過、季節や気候、その変化による自然界、人体に及ぼす影響なども古来数千年にわたり研究されており、それを、ラーガと呼ばれるインド古典音楽で表すのだ。また人間の感情なども表現される。
 ラーガという言葉には、「情念」あるいは「心を彩る」という意味がある。

 さて、いかに音楽で表現していくかは、もちろんその本人の技術と感性に関わってくる。演奏技術は努力次第である程度習得できるのだが、味のある魅力的な 演奏となると、努力とはあまり関係がないようだ。それは、その奏者の心の有り様が深く関わってくるからではないかと思っている。
 僕の場合は、なるべくシンプルに生活するようにしている。インドにいたころはまさにシンプルそのもので、日々の生活に必要最低限のものだけで十分だっ た。身の回りに余計なものがなくなればなくなるほど、身心ともに軽くなり、感覚は研ぎ澄まされ、心がより解放されていく。そして、さらに自由な発送が生ま れ、音楽の即興性も無限に広がっていく。

 僕は現在、信州に住んでいるが、ヒマラヤの気候によく似ており、また乾燥しているのでインドの楽器にはぴったりだ。そして何よりも、信州の山々や大自然 に囲まれて生活することが心地良い。なぜならば、何気なく見上げる空や山々から随分と栄養をいただいているし、時折、バドリナートで師に入門を許されたと きに感じた感覚を呼び起こしてくれるからだ。
 正直、体調がすぐれなかったり、気分が乱れていたりで演奏したくないこともあった。しかし練習を重ねるにつれ、シタールを弾いていると元気になり、心が静まっていくようになった。
 僕は日々、自然な心で生活し、自然な心演奏できるようになりたいと願っている。

 僕にとってインド音楽を演奏するといい うことは、与えられた人生を生きていくということと同じだ。この地球上のあらゆる生命が生きているしくみ、ある統一された秩序の中で行われているさまざま な出来事、そしてこの大宇宙で常に即興的に自由に生きるということ、それはまさに「ラーガ」を表現していくことなのだと僕は思う。